次世代都市国際連携研究機構・WG3レジリエンス都市研究では「水と都市」研究会を立ち上げました。

本研究会は、水と陸の境界に発展した国内外の都市を対象に、都市組織および都市同士の接続形態、遠隔的なネットワークを読み解き、水と都市をめぐる新たな地域資源の発見と、その継承に向けた方法論を議論することを目指します。

研究会の活動として下記のとおり報告会を開催いたしました。

ネットワークのなかの橋梁―流通・技術・都市社会―

[日時] 8月23日(火)15:00~17:00
[プログラム]
趣旨説明 中尾俊介(東京大学)
報告1 勝田俊輔(東京大学)「18-19世紀ダブリンにおける架橋と都市政治」
報告2 羽藤英二 (東京大学) 「流動の中の都市―瀬戸内・旭川・高梁川・吉井川・鉄道橋の交通史―」
コメント 東出加奈子(大阪成蹊大学)

中尾俊介 趣旨説明

橋梁をふくむ新しいインフラの導入を評価する際の論点が提示された。第一に、インフラ事業の意図・目的について、当該の国や地域の政策のみならず、他国の政策や、国を越える技術者の活動の影響を加味して検討する必要があること、第二に、都市・地域における新しいインフラの受容の過程について、既存の秩序と新しい技術の対立・併存・協調や、導入事例から技術体系へのフィードバックなど、都市・地域と新しい技術を相互に影響しあうものとして捉える必要があることが指摘された。

勝田俊輔 18-19世紀ダブリンにおける架橋と都市政治

リフィー川の両側に形成されたアイルランド王国の首都ダブリンは、18世紀に急速な拡大を果たした。当時、一般にヨーロッパ都市は工業化に先立つ成長があるが、なかでもダブリンは100年間で人口が3倍になる非常に顕著な拡大を遂げた。都市の住人は中世以来の旧市街地に住む商工業者にくわえ、領地から社交シーズンにダブリンを訪れる地主階層がおり北東の新市街地に居を構えた。その結果、新市街地の交通を改善すべくリフィー川下流(東側)への架橋が求められるようになる。

しかし、リフィー川への架橋は上流への舟運を制限することから、既存の税関をダブリンの中心から河口へ移す必要があった。中心部に広がる旧市街には商工業者が居住していたが、彼らは税関の移転が一帯の衰微を招くとして反対する。税関建設をともなう多額の事業費も問題であった。

当時、法案の策定にはアイルランド議会を通過し、かつイギリス国王の承認を得る必要があった。架橋に関する法案はアイルランド議会でたびたび棄却され、代替となる税関の移転に関わる法案はアイルランド議会を通過するものの、ロンドン枢密院の判断で3度廃案となった。後者の背景には、旧市街の北岸に所領をもち、商工業者たちと利害をともにする閣僚(ロンドン政府)の活動があった。最終的には新市街地に利害を有するダブリンの有力政治家が国王の説得に成功するものの反対意見は根強く、新市街地に建設予定であった裁判所を旧市街地に建設することでようやく反対派の説得に成功し、税関の移転とリフィー川架橋が実施されることとなった。

羽藤英二 流動の中の都市―瀬戸内・旭川・高梁川・吉井川・鉄道橋の交通史

中世・近世の瀬戸内海における広域的な都市の立地は、航海技術によって規定されてきた。東大寺に残されていた「兵庫北関入船納帳」にみられる15世紀中期の瀬戸内の湊の立地条件と輸送品目は、17世紀以降の沖乗航路の開拓と港湾の整備によって変化し、繁栄・衰退を迎える。

交通技術の変化による都市の浮沈は明治以降にも確認される。明治24年の山陽鉄道開通にはじまる鉄道網の整備は、鉄道と瀬戸内海運の競合、鉄道による河川の分断、河川輸送の鉄道による代替などの影響を広域的に及ぼしていく。一方で、物流の絶対量は増大しており、鉄道と共存する河川輸送も存在したため、両者の結節点として津山、福渡、湛井は繁栄することとなった。また高梁川の美袋では左岸と右岸で鉄道による輸送条件が異なることから商圏に変化と格差が生まれており、架橋による内陸交通網の結合が徐々に進んだものの、最終的には内陸まで鉄道網が延びることによって舟運は衰退することとなる。

以上のような舟運に由来する地域構造の近代化、つまり高速流動網の置換と臨海鉄道都市への集積は、鉄道の国産化の徹底よりもネットワークの延伸・浸透に重きを置いた鉄道事業の方針のもとで実現されている。このことは初期においては英国の借款、さらにその後のアイルランドや英国出身のボイルやポーナルといった鉄道技師たちの技術戦略による複合的帰結といっていい。水と都市をめぐる交通史は、新しい交通技術による国土・地域・都市空間の構造的変化のみならず、インフラ整備におけるサプライチェーンや技術輸出といった産業史的側面からも考察可能であることが展望された。

東出加奈子 コメント

フランス・パリとの事例をもとにコメントがなされた。フランスはヨーロッパのなかで河川水運網が最長であり、ナポレオンの大陸封鎖後、内陸の運河の整備がおこなわれたこと、パリ周辺の河川整備も革命後に進み、護岸工事とともに進んだ橋の建設によって大型船が市内を通過できなくなり、都市外に運河が開削されてラ・ヴィレットに税関(生活必需品、食料品が主)が設けられたこと、第二共和制以降(1848年~)においては人口の急増にともなう物資の陸送、人の往来の拡大によって道路交通が盛んになり、パリ市による橋の買い上げや、大通りの建設が進んだことが紹介された。

勝田報告に対しては、19世紀パリにおいてレジャーのための移動が拡大したことに触れ、新しい橋梁建設の詳しい目的が問われた。対して勝田氏より、新市街地に住む上流階級が馬車で議会や聖堂に行く際に橋が混雑することが問題視されたと回答があった。

羽藤報告に対しては、フランスにおいては鉄道開通によって舟運が衰退したとは言い切れないこと、フランスに比して日本の河川が急流で狭いことに言及し、道路による陸運の発展や河川の地形的な特徴が、舟運の衰退と関係したのではないかと問われた。対して羽藤氏より、急峻な地形は大きな要因として想定していること、陸路の整備による都市の変化も事例として確認されていることに触れ、道路交通も含めた各交通手段の協調・競合を急峻な地形を念頭に検討することは今後の課題としたいとの回答があった。

つぎに、フランスでは科学アカデミーにて土木技師の養成がなされたことに言及し、各地の土木技師の養成について問われた。対して勝田氏が、日本の鉄道橋建設を担ったボイルの例を挙げ、19世紀以前のイギリスにおいては親方・弟子の関係で技術の伝播がなされたのではないかと指摘した。

その他、討論では以下の点について議論がなされた。

・交通網の整備がどのような論理で行われるのかという点と(中央集権的におこなうか、分散的におこなうかなど)、技術者の養成や技術の輸出入とを関連付けて論ずる可能性。

・運河への導水と、生活用水や農業用水が重複する際の水量をめぐる対立について。

・絵図にみられる橋詰の祝祭と現在への継承について。